社会を規定するのはまた、一方で、長い歴史と他国の人々などとの交流や輸入・修学などを通して、そして命をかけた戦いともいえる社会的な運動などで勝ち取ってきた、創り上げてきた倫理・道徳、社会の中の暗黙の不文律なのです。その中には根本的な善悪の判断や理解、その認知と受容といった不可欠のプロセスがあります。似たものは過去の尊敬を集めていた時代の中国にもありました。でも現代の中国にはそれはもうありません。自らの利己的な、さらには暴力的な欲望とその行使という現代社会で否定され排除される態度や行為、表出だけが顕著に、いえ、露わになっているのです。この部分的な側面はしかし、日本にもまた形を変えて見られる物もあるのです。
ここは日本です。尖閣諸島もまた日本です。そこには是非と帰属を決める論理と事実と民主主義が存在するのです。一方的な専横や独占の思想は人類の進歩の名において排除しなければならないのです。身勝手で自分本位の認知障害によって侵害も侵略もなされませんし、制服されることはありません。自由と誇りと尊厳をやせても涸れても私たちは手放すことなく、その存在の名において持ち続けるのです。
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