生きるために
2014-08-05


もし私たちが何かに束縛され、行動の自由を妨げられたり、心の自由を奪われたりする、およそこの「自由」なはずの日本においてあるはずのない非現実的な環境にあるとしたら、私たちにとってそれは何にも増して堪え難い非現実的な世界でしょう。もしそれが、日常的なある種の「ことば」によって作り上げあられるとしたら、それは伝達や意思疎通そのものを奪うことになるでしょう。それはまた、一方の側の「人間」であるはずの「力」をもった側にそれ自体を否定することにほかなりません。

どのようなことばであれ、話したり記したりする手段に否定を表す表現に縛られるとしたら、それ自体でその表現を不能としてしまうのです。ですから、その話者、発言者自身、その「自由」からの逃避を自ら求めることになるのです。かつて、エーリッヒ・フロムはその著書により、ナチスのその存在と束縛の非人間性を一方で指摘し、支配の反支配的な関係に唯々諾々とすることに私たち自身の自由の放棄を投射したのだ、と嘆いたのです。伝えるべきことば、そのための手段とその無意味さにそれ自身の言及する不能さと不毛さを見ることができないとしたら、その生を自ら否としてしまうのです。

生きるために、私たち自身はその生まれながらの自由をそのことばによって売り渡してはなりません。他者に対して発することばに否定を常に含む表現と言動にその話者自身はその生きる自由を自ら否定しているのです。ことばはそこに意思をもって伝達を担い、私たち自身の精神を具現化する手立てであるのですから、自らのことばにその否定を求めたとき、そのことばは自由を無くし意味も目的もなくなってしまうのです。
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